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忌まわしき習慣。
2007-11-20 Tue 21:06
旅立ちから-45日目の見聞録。
現在放浪0ヶ国目。
「日本」の「愛知県」に滞在しています。



旅はお金がかかる。
体力がいる。
精神的にも強くないといけないときもきっとある。
そろそろ自分を取り戻さなきゃ。

俺の人生をここまで見事に歪めてくれたものがいくつかある。
乗り越えるにはとにかく努力が必要。
ってことで忌まわしき習慣からやっつけよう。

禁煙セラピー―読むだけで絶対やめられる (ムックセレクト)禁煙セラピー―読むだけで絶対やめられる (ムックセレクト)
(1996/05)
アレン カー

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俺はこの本がある意味今までの人生で一番救いになっているのかも。
Mr.アレン・カー、ありがとう!安らかに。。。

禁煙セラピー イラスト版禁煙セラピー イラスト版
(2007/03)
アレン・カー

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こちらはイラスト版。イラスト版のほうがより早く、イメージ的にタバコを吸うという行為が馬鹿らしく感じる。
この2冊のおもしろいところは「タバコを吸うと危険」みたいなことはそんなに書いてない。
「なぜ辞めるのか?」じゃなくて「なぜ吸う必要があるのか?」というところを強調している。
俺も含めほとんどの人がなぜタバコを吸うか、その意味さえわかってないと思いしらされた。
そしてそれを知ってしまうと吸うのがほんとに馬鹿らしくなります。

でも何度も禁煙失敗してます。
なかなかタバコの洗脳を拭い去るのが難しいみたいですね。
でも絶対あきらめません。
成功するまで何度も試みるつもりなんで。
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世界一周堂HPにリンク貼ってもらっちゃいました。
2007-12-09 Sun 23:47
旅立ちから-26日目の見聞録。
現在放浪0ヶ国目。
「日本」の「愛知県」に滞在しています。




なんと世界一周堂さんのHP

「セカイチブログ(世界一周ブログ集)」

のコーナーにこのブログのリンクを貼っていただいちゃいましたぁ!!
感謝感激です。ほんとうにありがとうございます(厚かましいお願いして恐縮です)。
このブログが世界一周したいって考えてる人の
「ひとつのモデルケース」になってくれると非常に嬉しいです。
できるだけ多くの人に見てもらいたいのでがんばって更新することをここに宣言いたします。
旅立ちまであと少し。もうすこし日常を書き綴ります。出発まで今しばらくお持ちください。


ではでは。


世界一周堂さんのHP。赤丸部をクリックします。
クリックすると下の画面になります。

少し下にスクロールすると・・・あった!
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おしらせ。
2008-01-18 Fri 22:40
いろいろありましたが今僕はラオスの首都ビエンチャンにいます。
一人です(寂
なかなか日本語マシーンに巡りあえず(きっと普通にあるとは思いますが)
更新が遅れております。

。。。が残念ながら(?)まだまだしぶとく生きていますので
皆様の応援お待ちいたしております。

近日更新まとめてします!
お楽しみに!


2008年1月18日ビエンチャン(ラオス)より
                         濡音。
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サーメルについて。
2008-02-16 Sat 23:52
ヨルダンの有名人
「サーメル」について紹介します。
この文章は宿においてあるサーメルストーリーとまったく同じです。
日本にいて、まだサーメルについてよく知らない人の為にUPします。
またmixiでサーメルのコミュニティをやっている方もいるのでぜひ読んでみてください。

では。

sa-1

サーメルについて

父が話してくれたことによると、パレスチナにいた私の祖父がヨルダンに移ったのは1948年(第一次中東戦争)のこと。それまではイスラエルの北部、ハイファのソパリンという小さな町に住んでいた。(今はソパリンという名の町はなく、別の名前になっている。)

当時、私の父は7歳、祖父の職業は不明。イスラエル軍の攻撃から逃げ、祖父らはアンマンに移った。そのあとイスラエルが独立を宣言。イスラエルとヨルダンの間に、国境を作ってしまい、祖父ファミリーはパレスチナに戻ることが出来なくなってしまった。本当はパレスチナは私の祖国なのに渡航にはビザが必要なのだ。そのときパレスチナ、ヨルダンで親戚がいたりたまたま離れていた家族はそのために引き離されてしまった。私の母と母の姉がそのパターンで、1948年当時、母の姉は14歳、母は7歳。

家族、親戚がパレスチナからでるとき、母の姉は一人アンマン行きを拒み、パレスチナに残った。彼女はそのとき、パレスチナに好きな男性がいて、彼と一緒に残るほうを選んだのだ。真偽は不明だが、私の祖母と母が語ったことによると、イスラエル軍の仕打ちは本当にひどいものだったそうだ。「本当なら傷ついても死んでもパレスチナを離れたくなかった。でもイスラエル軍は略奪、殺人あらゆることをした。中でもひどかったのは若い女性に対するもので、若い女性を捕まえ裸にしてトラックに積んで、道に立たせるというもの。レイプもあった。ムスリムの女性にとってこのような仕打ちは死ぬより辛いもの。でも逃げることも助けることも出来なかった。布をかけてやるだけで撃たれてしまうのだ。ここまでされるのならもう逃げるしかない。出て行くしかない。」

それから60年近く経つけれど、戦いは終わっていない。2年前、パレスチナ自治区北部、ナプレスに住む叔母に電話をかけた。パレスチナ訪問のビザを取るために、パレスチナ在住の人の助けが必要だったからだ。叔母は「残念だけど手伝ってあげられない」と言った。4年前の アルアクサ・アンティファーダ(対イスラエルのパレスチナ人の戦い)により、4人の息子のうち、2人が死に、2人が投獄されているのだと言う「いまの私の家族状況では、ビザのサポートとして問題があるから」叔母はそう言った。

 家族の話をしよう。父と母とは遠い親戚で、同い年の幼なじみのようなものだった。17歳のときに結婚、アンマンの郊外に小さな家を建て3年後に長男ハッサンが生まれた。父はエレクトリック(電気器具の修理が主)として忙しく、週の1,2度しか帰ってこれないほどだった。それでもお金はたくさん得られたので、アンマンのダウンタウンから少し離れたところに大きな家を買った。そこで3男、4女をもうけ、私たちはそこで暮らした。私は8人兄弟の4番目。長男ハッサン、次男アベット、長女サウサン、私、妹スーハ、妹ハイファ、妹タハニ、そして末の4男フィクリ。

その家で私は18年暮らしたが、その生活は必ずハッピーと言うわけではなく、母は上の兄2人を特に可愛がっており、姉のサウサン、2人の妹、スーハ、ハイファ、そして私のことはどうでもよかったようだ。末の妹タハニと弟フィクリが生まれ、やはり老いてからの子供は可愛いのか、その2人のこともとても可愛がったが、兄弟間で母から差別を受けることは辛いことだった。母は衣服、身の回りの持ち物、食べ物などで差別をした。普段から私と姉、2人の妹は十分な食べ物を与えられなかった。母はとにかくお金に対する執着が強く、父がちゃんとお金を与えているにもかかわらず、食事はごく質素で、さらに可愛がられている兄たちの食事より、私や姉妹の食事は少なかったので木曜日と金曜日以外はひもじい思いをした。木曜日と金曜日は決まってご馳走だった。父が帰ってくるからだ。母は父に見えるところだけ、取り繕うようにお金を掛け、私たちにもきれいな服を着せ、普段からそうしていたかのような振りをするのだった。楽しいはずのラマダン明けの祭りでさえも、私にとっては辛いものだった。父が帰ってくるのは嬉しい。しかし、ラマダン明けの祭りの数日間はたくさんの食べ物をそれこそ食べきれないほど用意しなくてはならなかったので、お金を使いたくない母としては相当めんどうで、いやだったらしい。

母は本当に些細なことであるときは、理由もなく私や姉妹を罵り、棒でぶった。もちろんそれは、父のいないところでだったが。私が12歳になる頃には父と母との間に言い争いが絶えなくなった。私や姉妹は学校が大好きだった。学校にいれば友達もいるし、大好きな勉強も出来る。なにより母に辛く当たられることもないし。父や母が言い争うのも、見ないですむ。家に帰りたくなくて、私たちはよく家出をした。「もう帰らないからね」という私たちを、母は止めなかった。しかし行く当てもなく、いつも警察に保護されてしまい、そんな私たちを迎えに来るのはいつも父の役目で、父のいないときには兄が渋々くる、といった感じだった。母が私たちを迎えに来たことは1度もなかった。

そんな中、母の妹が私たちのことを庇い、たまにではあるが、家出をすれば少しの間、泊めてくれたり食べものを与えてくれた。彼女は私たち兄弟8人を分け隔てなく、可愛がってくれた。父や親戚はたまに、おみやげを買ってきてくれたが、私や妹の手に渡ることはまれだったし、母は父がくれた1JDのこづかいさえも取り上げた。ある日父は、私にと腕時計を買ってきてくれた。私はとても嬉しかったが、父が出かけた途端、母はそれを私から取り上げてしまった。きっと母はその時計を兄にやってしまったのだと思う。

ある日、母からの仕打ちに堪りかねた妹スーハは、母が普段、自分たちに少ししか食べさせてくれないことや、私たちに対する暴言、兄たちとの差別、いままでの仕打ちを手紙に綴り、父の鞄にそっと忍ばせたが、それを見た父は「この手紙に書いてあることは本当か?」と母に見せてしまい、さらに母の怒りを買い、母は私たちをより一層、憎むようになってしまった。手紙について母は父に、「あなたに家にいて欲しくて言った嘘だ」とうまく言いくるめられ、信じてもらえなかった。私たちは父が別の仕事についてくれることを願った「お父さんが仕事をかえて、毎日いえに帰ってきてくれたらいい。そうしたら毎日ご飯を食べられるし、母さんも私たちをいじめない。早く大きくなって、結婚してしまいたい。そしたらこの家を出て行ける」。

その言葉通り、2人の妹、ハイファとスーハはエジプト人と結婚し、いまはエジプトに住んでいる。姉サウサンはヨルダン人と結婚したものの、わずか1ヶ月で結婚生活は破たんした。姉サウサンと妹ハイファは父が決めた男性と結婚したが、スーハは自分で結婚相手を決めたため、父の怒りは大変なものだった(いまは許している)。
 

15歳で学校を卒業してから、3年間、職を転々としながら働いた。車の修理工場、プラスチック工場、靴の修理屋・・・仕事はとてもハードで賃金は低かった。しかし母は給料のほぼ全てを渡すよう要求し、私のところには毎月、5JDくらしか残らなかった。交通事故で右足で怪我をしてしまって、1年間働けなかったときもある。そんなときでさえ、母は何もしてくれなかった。母との良い思い出はそういえば1つも思い出せない。友達を家に連れてきて遊ぶということも、兄には許されていても、私たちには許されていなかった。大家族の中にありながら、私も姉も妹も孤独だった。
 
父との思い出は、父はとても明るく社交的で、母とは対極の人だった。よく家にたくさんの人を招いて、パーティーをして、それは楽しかった。忙しい中、休みの日には父は私たちを紅海やヨルダンバレーに旅行に連れて行ってくれた。母はけっして行かなかったし、母が止めたのか兄もあまり行かなかったが、私や妹は父と出かけるのが大好きだった。本当に楽しかった。父はずいぶんあとになって、母が私たちにしたことを知ったらしい。「あのとき助けてやれなくて気づいてやれなくて、すまない」。父は私たちにそう詫びた。

19歳のときにクリフホテルで働いていた知人が「おまえもここで働かないか」と誘ってくれて、私はこのホテルで働くことにした。給料は良くないけれど、母のいる家に帰らなくていいし、事故で悪くしてしまった右足のせいで他の職業にはなかなか就けなかったからだ。
 
クリフホテルに来て4年ほど経ったころ、私は精神的に不安定になっていた。アンマン、この大都会で、独りぼっちになった気がした。友人も本当に心を許せるものはおらず、母の家には帰れない。父にも妹にも会えない・・・。そんな中、ある日、私はなんの薬だか分からないが、とにかく一気に大量にその薬をのんだ。「薬をたくさんのんだら死ねるかもしれない・・・。」そう思ったのだ。しかし、薬をのんでも、気分が悪くなり、意識が朦朧とするだけでまったく死ねそうになかった(胃薬だったのかな)。そんなことを何度か繰り返し、私は自分自身を傷つけてばかりいた。「私が死んでも、だれも悲しみはしない・・・。」そう思っていた。アンマンは本当に都会だ。こんなにたくさんの人がいるのに、ここでもやっぱり私は孤独だった。そんなときが何年か続いた。


 クリフホテルには、あらゆる国から旅人がやってきた。フランス、ベルギー、アメリカ、カナダ・・・冷たい人もいたし、優しい人もいた。もちろん旅人からしたら、アンマンなど旅の中継点でしかないだろう。でもそんな中に私は温かい心があるのを感じた。通り過ぎたあとには、忘れていくだけのはずのこの宿に私宛に「元気?」「ヨルダン楽しかったよ」と葉書や手紙を寄越す旅人がいた。礼儀正しく、優しく、明るい。振り返ってみると私に優しい言葉を掛けてくれたり、微笑んでくれていたのは遠い東の小さな国からの旅人たちだった。私たちアラブ人と同じ黒い瞳を持つ日本人。

私は彼らといて“ああ家族みたいだ”と思った。なぜだか分からないけれど、不思議と日本人の旅人とは心から打ち解けあえたのだ。フランス人やイギリス人はここを離れるとぷっつりと連絡が途絶えてしまう。でも日本人の多くがこの宿を離れる前に、ノートに思い出や“ありがとう”の言葉を残してくれた(情報ノートのこと?)。離れても忘れない、遠くても思い出す。やっぱり私はこれは「家族のようだ」と思わずにはいられない。私のために泣く人もいた。私のために怒る人もいた。私のために必死になる人もいた。皆、「サーメルはどうしてそんなに優しいの」と言うけど、私にとってもそれは同じ。知り合って間もない私に、こんなに良くしてくれて、こんなに思ってくれるのだから。

私もわたしの出来ることを大切なファミリーにしてあげたい。私には帰る家もないし、家族もバラバラになってしまったけれど、私はここで自分の場所と血のつながらない兄を、姉を、弟を、妹をたくさん得ることが出来たから。だから私は今とてもしあわせだよ。だってすごいBig Familyだよ。今日もどこかから、わたしの兄弟がここにやってくる。私はそれがとても嬉しい。
 
長旅に疲れて、やっと家にたどり着いた、弟、妹にソファーで休むように促し、ご飯を食べさせたり、お茶やコーヒーを入れることはごく自然なこと。私はだれもが家族に対し、当然することをやっているだけだ。君たちが旅を終えて、日本に帰ったとき、君の父や母はどうやって君を迎えるだろう。姉や兄、妹たちは久々に帰ってきた君のために何をするだろう。

私はいつもそんな気持ちで、今日も重い荷物を背負い、不安げな表情で「今日、部屋はありますか?」とクリフホテルの扉を日本人を待っている(日本食は出してあげられないけどね)。荷物を降ろし、ソファーに掛けて、熱いネスカフェのカップを手に、君たちがホッとした表情をするのを見ると、こっちまでホッとする。「おかえり、ようこそクリフホテルへ」。そしてクリフホテルで休んで、地図を見て、また元気に旅立っていく、私の弟、妹たちよ。どうか無事、旅を終えて日本に帰って欲しい。そして私のことも思い出して。いつかきっとまたヨルダンにもきて欲しい。いつでも帰ってきていいよ。ここは君の家でもあるのだから。



パレスチナについて

イスラエルが出来るまでは、ヨルダンとパレスチナの間に国境はなく、人々は簡単に行き来できていた。アンマンからアカバから行くように、同じ国内を移動するような感覚だった。ヨルダン人とパレスチナ人の間に違いはなかった。

1948年パレスチナに集まってきたユダヤ人はアラブ7カ国と戦争をし、7時間で勝利し、イスラエルを作った。イスラエルが国境を作り、戦火から逃れるため、国外へ出たパレスチナ人はもう自分の国に帰ることが出来なくなってしまった。他の国は分からないが、ヨルダンでは国連がキャンプを作り、家を建てるための援助もした。家族ごとに病気や怪我で病院へ行かなければならなくなったときに、無料で治療を受けられる書類も発行された。そうしてヨルダンへ逃れてきたパレスチナ人は家を建て、仕事をし、生活を始めた。

幸せに暮らしている家族もあるだろうが、私の叔母のように、パレスチナに残って家族が離れ離れになってしまい、いまだし再会できない場合が多い。ヨルダンに住むパレスチナ人がパレスチナを訪れるにはビザが必要になる。パレスチナに家族がいれば、ビザ発給のための書類を書いてもらえる。それがあれば比較的かんたんにビザを取得できる。私もパレスチナへ行ってみたい。会ったことのない叔母を訪れたい。しかし、私の叔母の4人の息子のうち2人はイスラエルに逮捕され、2人は殺されてしまった。彼らはインティファーダの活動に参加していないのに、何もしていないのに・・・。

叔母には手助けしてあげられないと言われた(政府にマークされているから)。パレスチナの家族の手助けがない場合でもビザを申請することは出来る。大使館へ行って申請し、指定の銀行でUS50$を振り込み、返事を待つ。

10回目の申請でOKをもらえるかもしれないし、100回申請してもダメかもしれない。彼らはお金を振り込む前にビザをくれるかどうか決して教えてくれない。私にはそんな方法はとれない。金銭的にも不可能だ。

パレスチナ側の人がヨルダンへ入国することは簡単だが、税金も移動費も高く、お金に余裕のある人しか出来ないから、60年経つ今でも離れたまま再会を果たせないでいる家族がたくさんいる。

毎年、2,3回は叔母に電話をする。去年は2回した。電話するたび叔母は少し泣きながら「食べ物がない。夫の給料は少なく、全てのものが高い。イスラエル軍がノックもせずに、突然家に入ってきて、テロリストを探しに来る。」という。何かしてあげたくても、私には何も出来ないのだ。

ほとんどのパレスチナ人はイスラエル政府、ユダヤ人のことが嫌いだ。インティファーダが起こる6年前までクリフホテルにもユダヤ人のゲストがよく来ていた。私はもちろん「ようこそ!」と言い、もてなすが、実は内心気分は良くなかった。でもユダヤ人の中にもいい人はいる。私は4人のユダヤ人の友達がいて、その中でも特にアディルさんという人は平和が好きで、パレスチナ人のことも好きだ。彼は今でも時々私に電話をくれる、とてもいい友達だ。

多くのパレスチナ人はサダム・フセインのことが好きだった。イラクがフセイン政権のとき、サダムはパレスチナ人を助けていてくれたからだ。パレスチナ人はイラクに簡単にいくこともできた。もし、パレスチナ人がイスラエルに対して自爆テロをすれば、サダムのポケットマネーから家族に20,000ドルが渡されていた。

6年前のインティファーダの時、確かパレスチナのラマンラーという街だったと思うが、アハマドドゥッラーという少年とその父親が、イスラエル軍とパレスチナ人の銃撃戦に巻き込まれた。父親はアハマドドゥッラーを守るために、撃ち合いを止めようとしたが、イスラエル軍に父親は腕を撃たれ、アハマドドゥッラーは殺されてしまった。アハマドドゥッラー達を助けに来た救急車も、イスラエル軍に撃たれてしまった。サダムはアハマドドゥッラーの家族に20000ドル払った。当時はこういうことがよくあった。私はサダムが自爆攻撃をした人の遺族にお金を渡すのは、いいことだとは思わない。しかし、父や息子を殺された彼らに、何が出来るだろう。武装したイスラエル兵に石を投げる?そんなことをしても意味がない。自爆と言う方法しか彼らには残されていないのだ。

サダムが死刑になったとき、全パレスチナ人が悲しんだ。私も悲しかったが、それはイラクでの殺し合いを止められるのはサダムしかいなかったからだ。サダムが死んで、イラクは終わった。毎日100人もの人が死んでいる。スンニとシーアの殺し合いだ。サダムが悪い人間だったことは私も知っている。クルド人がサダムを暗殺しようとしたときには、千人以上のクルド人を殺した。それでも、サダムはベストだった。少なくとも国はひとつにまとまっていた。イラクには、サダムのような強い力を持った人間が必要なのだ。

ヨルダンの人口の70%はパレスチナ人だ。そして、アンマンの住民250万人のほとんどはパレスチナ人だ。だが、政府関係者、公務員はほとんどがヨルダン人、権力はヨルダン人が独占していると言っていいだろう。パレスチナ人の公務員もいるにはいるが、ごく少数だ。職業に就くのはとても難しい。だから、給料もヨルダン人300~500JD/月、に対し、パレスチナ人は150~200JD/月と最低賃金の120JDより少し多い程度だ。

ヨルダン人とパレスチナ人は住む場所が違うため、学校も違う。互いに嫌いあっていて、ヨルダン人はパレスチナ人の、パレスチナ人はヨルダン人の友達は作らない。私もヨルダン人の友達はいないし、つくろうとも思わない。ヨルダン人が怖いのだ。

例えば、街でパレスチナ人とヨルダン人がけんかをしたとする。警察へ行って、最初の質問は決まって名前だ。名前を聞けば、ヨルダン人かパレスチナ人かが分かるからだ。ヨルダン人の警察が気にするのは、どちらに非があったということではなく、どちらがヨルダン人かということなのだ。ヨルダン人に非があったとしても、警察は彼にコーヒーをサービスし、被害者のパレスチナ人には暴力を加える。私は何回も警察署でその現場を見てきた。それが殺人事件であったとしても、ヨルダン人にお咎めはない。なぜなら、ヨルダン人の家族には力があって、警察は何も出来ない。パレスチナ人の家族も何も出来ない。ヨルダン人の犯人の家族から、お金を渡されれば、それを受け取り、黙っているしかない。お金すら受け取れないこともある。私がヨルダン人の友達を作らないのはそういった理由からだ。近づかないほうが身のためなのだ。近づけば常にYESと言い続けなければならない。それに、彼らの中には銃を持ち歩いている人がいる。違法だが警察は何もしない。でも、もしパレスチナ人が銃を持っていたら、大変な問題になってしまう。パレスチナ人はそういう不公平な社会の弱い立場に置かれているのだ。

以前はパスポートにヨルダン・パレスチナ人と記載されていたが、2年前にヨルダン人とだけ書かれるようになった。警察などで起こっているそういった問題を減らすためだ。しかし、名前や話し方、顔の色でヨルダン人かパレスチナ人かすぐにわかってしまう。何の問題の解決にもなっていない。ごく少数だが、私の父のようにパレスチナ人がヨルダン人と結婚することがある。(サーメルのお父さんの再婚相手がヨルダン人)でも、もし離婚したら、彼は彼の妻の家族に殺されるだろう。

パレスチナは私の祖国だ。出来るなら、帰って生活したい。しかし私が生きている間は実現しないだろう。なぜなら、エジプトやシリア、ヨルダン、レバノンの国々は、パレスチナ人をパレスチナの地へ戻らせたくない。多数のパレスチナ人が自分の国からいなくなっては、経済が成り立たなくなってしまうからだ。それに、あの国はもうイスラエルになってしまっている。今後も彼らは決してパレスチナ人に返そうとはしないだろう。パレスチナの50%だけでいい。それだけの土地があればいい。それでフェアだと思う。追い出されたパレスチナ人が、みんな祖国へと帰れる日が来ることを願っている。

日本のみんなにはこういったことが今も起こっていることを知って欲しい。パレスチナ人はテロリストじゃない。祖国で静かに生活したいだけだ。平和が早く訪れることを願っている。



日本人について思うこと

 私は日本人を家族のように思う。今の私があるのは日本人のおかげだ。以前まで私の気持ちは暗く沈んでいた。

2年前、コーダがこのホテルを出て、イラクから帰ってこれなくなったからだ。私はとても悲しかった。服毒自殺も図った。そんなすさんだ時も日本人旅行者の温かさに助けられた。いま私が生きていられるのは日本人のおかげなんだ。
もちろん他の国の旅行者たちも好きだ。でも彼らは自分の国に戻ったら、私のことは覚えていないだろう。でも日本人は連絡をくれる。まるで家族のように・・・。家族に恵まれなかった私には日本人が家族なんだ。

16歳のとき、足を骨折したが、検査のため病院に行くときも母は付き添いはおろか、タクシー代も出してくれなかったため、片足を引きずって通院した。また母は機嫌が悪いとき、よく私に当たった。食事が出なかったり、家を追い出されることもあった。路上で泣く私に人々は声を掛けるが、私は「なんでもない」としか言えなかった(おそらく母親からの報復が怖かったのでは?)。

多くの日本人は私と同じように悩みを抱えているように思う。悲しく思う。



コーダについて

その日、2004年10月19日午後4時頃、その電話は鳴った。
「日本人があんたの所のホテルに行きたがっている、住所を教えてくれないか?」 アラブ人の男からだった。その5分後にアラブ人の男(タクシードライバー)と一緒にコーダはここクリフホテルにやってきたんだ。

コーダは始め、イラクの話などせず、ただ、「ドミトリーに泊まりたい。」と言ったので私は彼を部屋に案内したんだ。(ここら辺のやりとりは、 下川裕冶さんの本の記述と食い違いますが、 サーメル本人の話をそのまま書きます)

私は宿の宿帳に彼の名前を書いていた。すると突然彼が「今からイラクへ行きたい。どこからセルビスが出ているか教えてほしい」と言い出したんだ。私は「セルビスで行くのは危険過ぎる」と答えた。セルビスで行くのはツーリストくらいしかいないから狙われる危険が高いからだ。するとコーダは「I have to go」と言ったんだ。

理由を尋ねると、「イラクの子供達を助けたい…、イラクへ行って何が起こっているのか自分の目で見て、日本へ帰って人々に伝えたい…」と。私は「もし本当に行きたいのならバスでしか行けないよ」と言い、彼は「OK、今から予約してください」と言った。 私は本当に予約しようと思えば、その時すぐにできたけど、彼を止めるチャンスがまだあると思っていたから、「今日はもう遅すぎて予約できないよ」と嘘を付いた。彼は「じゃあ明日のバスを予約して下さい」と言って部屋に戻っていった。

コーダが部屋から出てきて、サンドイッチを買いに行って、レセプション裏のバルコニーで食べていたのが16:30頃。その後部屋に戻って、少ししたらロビーの本棚の前に立って情報ノートを見ていた。そしてすぐに部屋に戻っていった。(情報ノートとは、旅人が自分の通ってきた道を、 次の旅人の為に情報を残し伝える為のもの)彼の様子は他の旅行者と違って見えた。数十分後にまた部屋から出てきて、バルコニーで長い時間座って通りを眺めていた。私は彼の事が心配で、バルコニーへ行って話しかけたんだ。「まだイラクへ行きたいと思ってるの?」って。 彼は真剣な顔をして「Yes」と答えるだけだった…。

その時ホテルに泊まっていた他の日本人の男の一人に、コーダと話をしてくれるように頼んだんだ。日本人と話す事で、コーダがイラク行きをやめようと思ってほしかったから。 その人がバルコニーに行ってコーダと話しをしていた。私は何かジョークを言って彼を和ませようと、「まだ気持ちは変わらない?もし本当にイラクへ行ったら、アルジャジーラ(カタールの衛星テレビ局)に出る事になるよ?」と冗談のつもりで言ったんだ。もう一人の日本人は笑っていたけど、コーダは笑顔は見せなかった。少し怒ってしまったようだった…。

その後もコーダとその日本人は長い間話をしていた。二人が話し終わった後、その日本人が 「彼はイラクへどうしても行くと言っている。誰も彼を止める事はできないよ…。」と私に言った…。

次の日(10月20日)の朝、10時頃にコーダは起きてきて「予約はしてくれましたか?」
と聞いてきた。私は、「18時のバスを予約しといたよ」と答えた。けれどこれは嘘で、本当は予約なんかしていなかったんだ。まだ彼を止めるチャンスがあると思っていたから…。 12時にチェックアウトをしてから、ロビーのソファーに座っていた彼に「まだイラクへ行きたい気持ちは変わらないの?」と何度も尋ねたけど、「変わらない」と…。もし、本当にバスを予約するなら14時までにする必要があった。だから14時前に最後にもう一度尋ねた。そこでも彼のイラク行きの意志は変わらなかった…。それで仕方なくバスの予約をしたんだ。彼を止める事はできなかった…。

その後、コーダが「イラクから戻ってくるまで預かっといて下さい」と私にある物を渡してきた。それは死海で拾った石とタオル、そしてイラクの子供の写真だった。写真は10枚くらいあって、戦争で傷付いた子供達が写っていた。コーダは、「日本人から貰った」と言っていた。

彼が亡くなった後、彼の家族にその写真を全部送ったら、 その内の一枚のコピーとコーダの写真を送ってくれた。(子供が血を流しベットの上で寝ている写真。クリフホテルで見る事ができる)送られてきた写真の子供はまだよく、もっとひどい状態の子供の写真ばっかりだったよ。 コーダはこういう子供達の為に何かしたかったんだと思う…。

コーダは出発までの時間、少し外に行った以外は、ずっとロビーで情報ノートを読んでいた。17時頃に日本人の男の人(昨晩、香田さんと話をした人)と一緒に、コーダをバスターミナルまで見送りに行ったんだ。彼は 「アッサラーム、さようなら」と言い、バスに乗り込んで行ってしまった…。

彼を見送った2時間後に日本大使館に連絡する事にした。「2時間前に日本人、コーダショウセイがイラクへ向かいました。まだ国境に着いていないはずです。もし可能なら彼を止めてほしい」と伝えた。すると 「お電話ありがとうございました。また何か分かり次第教えてください」とだけ言われたんだ…。

その後バグダットのホテルで働く知人に電話して、日本人がホテルに来たかどうか聞いたら、来てないと言われた。そのホテルをコーダに教えていたから、必ず行くだろうと思って、しばらくしてもう一度電話をしたら「確かに日本人が来たけど、身の安全を保障できないし、ホテルが狙われる危険もあるから、泊めてあげられなかったんだ…」と言われてしまった…。(武装グループがホテルへ押し入り、外国人を誘拐していく事件が頻繁に起こっていた。ホテルはそれを恐れていた。)

26日(日本時間27日)の夜中に国連の人 (サーメルとは前からの知り合い)から電話がかかってきて「日本人がイラクで人質になりました。アルジャジーラか、NHKを見て下さい」 と言われた。 テレビを付けると、そこには武装集団に囲まれたコーダの姿が…!!私はとても驚いてショックだった…。ザルカウィ率いるアルカイダに捕まったと知って、「もし、彼らが要求している時間内に、日本政府が何もしなければ、 彼は間違いなく殺されてしまう…」と思って絶望的な気持ちになった…。

その後、日本政府(外務省)からクリフホテルに人が来て、私にコーダの事を色々と質問した。けれど、その半年前に高遠さん、郡山さん、今井さん達三人が、イラクで人質になった時は、外務省、自衛隊、ヨルダン政府の人達がクリフに何度も来て、もっと色々な事を聞かれたし、とても慌ただしい雰囲気だったよ。(高遠さんら三人もクリフホテルに泊まって、ここからイラク入りをした)けど、コーダの時はそんな感じではなかった。多分三人の時と同じように助かるだろうと、 殺される事はないだろうと考えていたんじゃないかな…。だけど、私は 「危ない…」と思っていた。捕まったアルカイダというグループが危険すぎたから…。その後 『アジア人の遺体発見』という報道が2回あったけど、コーダではなかった。

だけど30日の22時に、ニュースで彼の遺体が発見された事を知った…。日本大使館からも電話がかかってきて、彼が殺された事を知らされたよ…。その2日後に彼の家族から電話があって、私が謝ると「あなたのせいではないですよ」と言ってくれた。私はコーダが殺されてしまったと知った時に、 心の中で誓ったんだ…。いつか私の夢である自分のホテルを持てる日が来たら、ホテルの名前に彼の名前を入れようと。

数ヵ月後に日本大使館に電話をして彼の家族に「ホテルの名前を『KODA HOTEL』にしたい」と伝えてくれるように頼んだんだ。 そしたら1週間後に彼の家族から 「色々とありがとうございました。ホテルを作る時にKODAでもSHOUSEIでも、どちらでも使ってください」というような内容のFAXが届いた。だけどその後、ヨルダンの役所に『KODA HOTEL』は許可できないと言われてしまった…。(個人名、又はあの事件で?)

実際受け継ぐ予定の『MANSUR HOTEL』から名前を変えて、再登録するには、色々な手続きと、時間、費用が大変かかってしまうんだ。HOTEL名はそのままでスタートし、いつか余裕ができたら『KODA HOTEL』に変えられるようにトライするつもりだよ。だけど、もしオープンできたらすぐHOTELの看板の下に、日本語で『コーダホテル』か『香田ホテル』と、書こうと思ってる。日本語なら役所にバレないからね!彼の事を一生忘れないように。そしてみんなにも彼の事を忘れてほしくないんだ。

私はいつも帰らない弟の事を思う。コーダはレセプションの裏の狭いバルコニーから、アンマンのつまらない通りを眺めていた。…今でも思い出せる。ソファーでノートを見ていたコーダ、部屋に向かう後姿、クリフホテルから出て行ったあの日、ターミナルからバス に乗り込んだあの時の事を…

sa-2
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| 濡音的地球見聞録。 |
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